今日デュエプレをやっている時にふと思ったことがあるのでそれについて書いてみることにする。
今日、デュエプレをプレイしていた時に気づいたことがある。
それは「どんなに考えてデッキを組んでも、自分より頭のいい人が組んだデッキには敵わない」というただそれだけの事実だ。
当たり前の話である。
本来考えるまでもないことだ。
そんな当たり前のことにも気づかなかったのは、それだけ熱に浮かされていたからだと思いたいところだがどうなのか。
個人的にデュエプレの(というかTCG全般の)面白さはデッキ構築にあるも考えている。
なので、私にとって他人の組んだデッキを見て真似る事は楽しみを失うこととイコールだ。
故に、なるべく他人のリストは見ないようにしている。
当然自分の考えなど対して優れたものではない。
対人戦の勝率も4割行くか行かないか程度だと思う。
それでも自分のデッキを組んでいくのは試行錯誤の連続だ。
一筋縄では行かないが、面白い。
この感覚はリアルじゃなかなか味わえない。
かなり心地いい。
しかし、困ったことがひとつある。
それは「自分は他人のリストを見ないという縛りプレイ的な遊びをしていようとも、相手は容赦なくテンプレを使ってくる」という点だ。
自分の考えたデッキなんかでは、日本中の頭が良い人たちの作り上げたそれに対抗する事なんてできない。
ボコボコにやられる。
それに合わせてこちらもデッキを変えれば良いのだが、突き詰めていくと「このデッキよりこっちのデッキの方が対応しやすいな」となり、最終的には「自分も同じデッキ使った方が強い」ということになってしまう(ここで諦めてしまうあたり、やはり自分は真のデッキビルダーではないのだろう)。
そうなるともはや自作デッキにこだわる意味がなくなる。
そもそも勝つことを目的としなければ関係ないのだが、それでもやはり勝ちたい。
できることなら勝利したい。
「勝てても勝てなくても、やりたい動きができればそれでいい」
そういえたらそりゃカッコいい。
しかし、無理だ。
勝ち負けが存在する以上、「できれば勝ちたい……」程度の願望はどうしても捨てきれない。
勝ちたい。
それもオリジナルデッキで。
しかし相手は容赦なくガチデッキをぶつけてくる。
となればこちらも……という思考になって結局オリジナルデッキを捨ててしまう。
それは間違いなく自分が弱いからだ。
弱いから、アストラル(遊戯王ゼアルの)が居ないと勝てない。
アストラルに頼りたくなければ頼らなくても良い。
一つだけ不変なのは、相手にはアストラルがついているという一点のみ。
ここでアストラルをつけるというのは、本来あったはずの「構築の楽しみ」を手放すことに等しい(自分にとっては)。
すると残る楽しみは「プレイングの精度」や「勝率」であり、それはもはやアスリートの領域だ。
自分はeスポーツがやりたいワケではない。
もっとカジュアルに遊びたいのだ。
で、前置きが長くなったが本題はここだ。
以上のように私は「構築の楽しさ」を味わいたいだけであって、勝ち負けの戦いがしたいわけではない。
これに対して自分で
「じゃあなんでTCGやってんだよお前」
と思ってしまったのだ。
自分は構築がしたい、つまりピースとピースを噛み合わせるパズル的な楽しさをTCGに見出している。
そして勝ち負けは余計なモノと感じている(負けるくらいなら勝ち負けなんかいらない!という駄々をこねるクソガキみたいな感覚)。
しかしTCGは勝ち負けがあるモノであって、それを否定することはTCGの構造自体を否定することにつながる。
にもかかわらず、今でも自分は「TCGが大好きだ」と言い切ることができる。
これはなぜなのか?
勝ち負けとかが嫌なんだろ?
自分より上のやつがいるのが嫌なんだろ?
どこまで行っても自分より賢い奴がいて、自分より上手い奴がいて、自分の上位互換がいくらでもいる。
そいつらを見上げて、「自分は入れ替え可能な存在でしかないんだ……」と絶望するのが嫌なんだろ?
だからマンガを描いてるんだろ?
誰とも競争する必要がない(※商業マンガなら話は別だが)から、100人いれば100人が開拓者だから、だからこそマンガを描いてるんだろ?
なのに何でTCGが好きなんだ?
どうして好きでいられるんだ?
全く分からない……でも好きになるって本来こういうことなのか……?
理由なんてなくとも好きになってしまうモノなの?
この気持ちって何なの?
恋なの? 愛なの? わーかーらーないー
っつーワケでわかんねーって事がわかったっつーハナシ
心充電!!!!!!!!!!!!!!!!!!!