今日も今日とてモンスト3DSに励んだ。
今日はスラッシュとオリガをクリアして、ルシファーを神化。
さらに「水属性キラーを見せろ!」とかいうミッションをクリアするため、ベルフェの神化も作った。
で、見せろとか言ってたやつに見せてミッションクリア。
あとは用済みである。
でもまぁせっかくだし、今度水属性のクエスト行く時にでも使ってみるか。
ベルフェゴールちゃぁん……? たぁっぷりかわいがってあげるからねぇ……?(ねっとり)
それはそうとこんな毎日に意味なんてないんじゃないかと思う。
私は意味のないことがイヤだ。
だから何にでも意味があってほしいと思っている。
しかし、意味を求めすぎるのもどうなのかなと感じた。
例えば、私は蚊をみれば特に何も考えずに叩き潰す。
それは、蚊が憎いからでも、殺したいからでもない。
ただ「何となくそうしてきたから」。
それだけでしかない。
蚊にとっては大事だろう。
自分の命が奪われたのだから。
しかし私にとって、それは大きな意味を持たない。
同様に、私の人生も「私よりも大きな存在」にとっては意味のないちっぽけな物でしかないのかも知れない。
例えば人類が生まれてから20万年が経つという。
私がこれまで歩んできた人生は二十余年。
人類分の我が人生は、20万分の20。
約分して1万分の1。
%にして0.000001。
私の今までの歩みとはその程度のものでしかないのだ。
ならば私の人生に意味はないのか。
たしかにないかも知れない。
しかし、あるかも知れない。
私の人生に価値があるのかどうかは、私が決めることではない。
それはのちの歴史が判断することだ。
だから現時点において、あらゆる価値判断は暫定的でしかない。
私は中学生時代、コロコロGというマンガを読んだ。
そこに掲載されていた「俺の屍を越えてゆけ」コミカライズ連載と、「デビルサバイバーOC」コミカライズ読切を今でも覚えている。
あの作品は私に多大な影響を与えたのは間違いない。
けれど、あれらの作品は世間にそれほど認知されていない。
コロコロGは1年で休刊になったし、おそらくコミックスにもなっていないだろう。
アレらの作品は、多くの人の目にはつかなかったはずだ。
だから世間にとって、これらの作品は「意味のない物」だったハズだ。
だが、私はあの作品を見た。
そしてそこから影響をうけた。
その私が何かしらのモノを残せば、それは人類総体の視点からみれば、意味のある事になる。
何も残さなければ意味はないのかも知れないが、ひょっとすると私の意図しないところで何らかの連鎖が起きるかも知れない。
(ちょうど、私がコロコロG作品から影響を受けたように、このブログを読んでいるあなたが今後何かを残すかもしれない)
そしてその連鎖の果てに、何か偉大な成果を残す人が居たならば、そこに至る過程にも当然意味は生じてくる。
まぁつまりこう言いたかったのだ。
意味なんて問うても仕方がない、と。
月並みではあるが(^◇^;)
自分の生に意味や意義がなかったとしても、後からそれらを獲得するかも知れない。
私が何かを残せなくとも、私の後が何かを残すかも知れない。
そしてその時に、この愚かしい先人の骨を拾ってくれるかも知れない。
もちろん、意味を全く問わない生き方もそれはそれで問題だ。
とはいえ、なんでも意味を問えば良いというモノでもないのかもな〜なんて思う、冬の夜空。
もうすこし がんばりましょう。