あああああああキツいいいいいいいいいいいいいいいい!!!!!!!!
頭掻きむしって発狂しそうになりますねこれは
それは厨二的な発言が恥ずかしいってのもあるんですが……
それ以上に、こんなキラキラした青春見せられたら実人生との気圧差で潰れてしまうわこんなの
なんか……なんかもうダメなのかもしれない
こういうのダメな体になっちまったのかな俺……
中学時代はとある漬けで高校時代は俺妹俺ガイルに頭をやられてたこの俺が……ラノベ原作ラブコメアニメ(とあるはラブコメじゃないんですが)が無理になってしまったのかも知れない……
切なすぎる……「大人になったら腹一杯唐揚げ食うぞ!!」と思ってたのにいざ大人になったら胃腸が弱って唐揚げ全然食えない的な話くらい切ない……
なんか悲しい……でもこういう感情もまた、感動の一種だよなぁ……
感動をありがとうっつってお別れすべきなんだろうか……寂しい……
追記
俺は六花だ……
なんか混乱してます今……ちょっとまとまってからまた書きます
追記の追記
中二病でも恋がしたい!とは
この話をするにはまず本作がどういう作品かを語る必要があります。
(※ここからネタバレ全開で喋るのでイヤな方は本編を見てからまたお越しください)
本作は元厨二病患者の高校生、勇太が現役の厨二病患者である六花という少女に出会い、恋人関係に発展していく話です。
物語内では立花の家庭環境の問題だったり、勇太の問題だったりその他のキャラの問題だったりが色々とありますが、ぶっちゃけそれらはあまり重要ではないと感じました。
重要なのはただ一点で、本作で中二病とは何を象徴しているか?ということだけです。
もったいぶってもアレなので言いますが、それは「クリエーション(創作物)」であるとの見方が有力でしょう。
厨二病とは、ただの空想であり、絵空事であり、現実には存在しないこと……すなわちフィクションです。
つまり厨二病患者とは「フィクションを生み出す存在=クリエイターのメタファー」ということです。
よって本作は「クリエイターについての話」が主題である……という前提で話を進めます。
諦めた勇太と諦めさせられた六花
勇太はかつてクリエイターでした。
拙いながらも自分の世界(=作品)を作り、演じ、周りに示していた。
大体の人はその姿を見てドン引きしてたわけですが、たった一人だけ、その姿に憧れの目を向けた人がいました。
それが六花です。
六花は勇太フォロワーとしてクリエイター活動を開始します。
しかし、程なくして勇太はクリエイションを諦めてしまいます。
これは世間からの要請やコミュニティからの要請*1に応える形で行われたものです。
世界への順応とも言えるでしょう。
一方、六花は勇太フォロワーであるにもかかわらず、今や勇太よりもイキイキとクリエイションを行っています。
が、結局勇太から「眼帯外せ(≒筆を折れ)」と言われ、やめてしまいます。
彼女もまた、家庭環境や周囲のコミュニティ、なにより勇太という自分のフォロイーの要請によってクリエイションを諦めてしまった訳です。
諦めたくなかった立花
しかし終盤。
勇太は、自らの思い出を躊躇しながらも捨てようとする六花の様子に心を痛めます。
さらに、六花がクリエイションを始めたきっかけは自分だった事を知る。(この時まで知らなかった)
これによって勇太は六花にクリエイションが必要である事を悟ります。
かつての自分のクリエイションを蘇らせ、六花に再びクリエイションを行うように提案。
めでたく六花は元のクリエイターとしての六花に戻ったのでした……というオチがついて物語の幕は降ります。
そう、六花は家族のためにクリエイションを捨てるつもりでしたが、本当は捨てたくなかった。
諦めたくなかったのですね。
俺は六花なのか?
この作品の状況はありきたりと言われれば全くその通りなのですが、私の心にはとても鋭く刺さりました。
なせならば、六花の状況と今の私の状況にはある程度重なる部分があるからです。
私が先日完成させた読み切り作品は、ザックリ言うと「ワンパンマン的な世界観でヒーローとして活躍する主人公がヒーローの座を失う」という話です。
なぜそのような話になっているかというと、私のメンタリティが反映されているからです。
それがどんなものかというと「自分はマンガ家になれないかも知れない……。でもマンガ家になんてなれなくても良いんだ。趣味でマンガを描ければそれで良いじゃないか」という感じです。
実際自分は職業としてのマンガ家になりたいとそこまで強く思っている訳ではなく、ただ「面白い話を書きたい」という思いでここまでやってきました。
だから、マンガ家になんてなれなくて良い。
持ち込みも投稿も売り込みもSNSで発表することもしなくて良い。
そう思っていました。
でもそれは、本当にそうなのか分からなくなったんです。
自分は本当に混じりっ気のない純度100%で「マンガ家になんてなれなくて良い」と本気で考えているのか、自信が持てなくなりました。
それは諦観に憧れているだけなんじゃないのか?
あるいは実現可能性が低い未来に対してワザと希望を抱かないようにしてるだけなんじゃないのか?
防衛機制によって心を守ろうとしてるだけなんじゃないのか?
本当は諦めたくないんじゃないのか?
ふとそんなことを思ってしまいました。
口では「マンガ家なんてなれっこないよw 目指してもないw」と言ってるけど、本当はどこかで諦めたくないのでは?
誰かに助けてもらいたいとか思ってるのでは?
そんなことを考えて、なんかもしかしたら自分は六花と同じ状態なのかな……と思いました。
俺の言葉なんて無い
イチローさんのインタビューを以前読みました。
その時彼は「僕は読書をしない」と言っていました。
その理由は「いくら読書をしても、それは作者の言葉であって僕の言葉ではないからだ」みたいな感じだったと記憶しています。
いくらスティーブ・ジョブズの自伝を読んでマネしても、自分がアップルの創業者になる事はない。
いくら経営者の自伝を読んでマネしても、その作者ほど上手くいくことはない。
本に書かれていることをそのまんま読み込んでも、それは作者の経験や言葉でしかなくて、自分の血肉にはなり得ない。
本当の意味で吸収するには、しっかりと自分の中で溶かして取り込んでいかないといけない訳です。
でも、自分は本当にそれができていたのかな?なんて思います。
よくよく考えてみれば私は、いや,自分はいつだってそうでした。
子どもの頃、自分は何度も何度も作文を褒められました。
「他のことは全く違う独創的な視点だ!」とかなんとか。
自分はそれが嬉しくて、誇らしく思って生きてきました。
でもそれは、単なるズルだったんじゃないか。
周りの子が読んでないような本を読んでいたからなんじゃないかと思えてきました。
だってその作文は、自分が読んだものをそのまんま吐き出しただけなんだから……。
自分が口にする言葉はほぼほぼ元ネタがあって、結局純粋に自分の中から湧き出た言葉じゃない。
自分は人の言葉に頼ってばかりで、自分の言葉を作ってこなかったんじゃないか。
「マンガ家になれなくても良い」ってのも、本当は誰かからパクっただけの思想で、本当はマンガ家になりたいんじゃないか。
自分は何を考えてるんだ、何が欲しいんだ……
というところをグルグル回り出してしまって、なんかもう収拾つかなくなってきました。
見てよかった
若干ヘコみましたが、それでもこのアニメを見てよかったと思いました。
今の自分の土台だと思っていたものが思いっきりひっくり返るような経験ができて、考えるチャンスをもらえたなと感じます。
自分のこの気持ちは、本当に自分のものなのか?
迎合するフリなのか、それともホントに諦めてしまったのか?
自分は六花なのかそうでないのか?
六花だとしたら、自分にとっての『勇太』は何なのか?
考えなきゃいけない事がたくさん見つかりました。
答えが出るかは分かりませんが、それでも見つけようとする努力をすれば、何かしらは指先にかするはず。
今はそう信じて、自分なりの「不可視境界線」を探しに行こうと思います。
……と、まぁ綺麗なオチもついたところですし
最後にあの掛け声でお別れしましょう。
闇の炎に抱かれて消えろ〜ってヤツですw
いきますよ〜?
せーの……
†闇に埋もれて眠るがいい†
(01)木村輝一【R】{BT7-091}《紫》 - カードラッシュデジモン
?
bye .
*1:無論、直に「おめーキメーからやめろw」みたいな明確な要請ではなく、無言の要請です。アトモスフィアです